相沢、永田に会う

相沢は連隊長である樋口季太郎の許可を得て、7月17日に上京します。
樋口は相沢をよく理解していたようです。その彼が相沢の状況を許可しています。
許可を与えないと無断で上京しかねないと思ったのでしょうか。
当時は青年将校が無断で隊を離れることがちょっとした流行だったようで、これを「脱藩」などと称していたようです。
ちなみに一部では統制派のことを「佐幕派皇道派のことを「勤皇派」と言ったといいます。
それはさておき、相沢の上京の目的は永田鉄山に会う為です。
この段階で永田を殺すつもりであったかどうはわかりませんが、まだその気持ちは固まっていなかったと思われます。というのも相沢は上京してから短刀を購入しています。
19日の午後永田と会談をします。
永田は相沢の言ったことが理解できたのでしょうか。
永田のように論理が考える人物にとって情で行動する相沢の言った言葉は理解できない部分があったのではないでしょうか。
永田によると「よく言ってきかせたから、おとなしく帰った」ということになります。
相沢は帰路西田宅によります。