2005-09-01から1ヶ月間の記事一覧

ノモンハン事件の始まり

ノモンハンとは小さな集落の名前です。 もともとはラマ僧の役職名だそうです。最高位の活きぼとけをフトフクといい、ノモンハンはその次に位置します。 この地に有名なラマ僧の貴人の墓があったことから地名になったとも言われています。 このノモンハンには…

ノモンハン事件

ノモンハン事件の経過を書きます。 昭和14年4月25日 関東軍は「満ソ国境紛争処理要綱」を作成し、各部隊に下達します。これには「軍ハ侵サズ、侵サシメザルヲ満州防衛の根本基調トス」とあります。 5月11日 外蒙自治国と満州国の不明確な国境ノモン…

西尾末広懲罰除名

昭和13年3月16日に社会大衆党の西尾末広衆議院議員が国家総動員法に賛成する演説をします。 彼は議場で、「近衛首相はよろしくムッソリーニ、ヒトラー、スターリンの如く革新政策を断行すべし」と言いました。 議場は騒然。「スターリンとは何だ、取り…

国家総動員法

国家総動員法について書きます。 この法律が国会に上程されたのが昭和13年2月24日。公布が4月4日。施行が5月5日です。 さて、この法律の提案理由は広田弘毅外相によって代理説明されました。 「本法の適切なる運用に依りまして軍需品を充足して陸海…

海軍と軍縮条約

海軍についてちょっと書きます。 ワシントン軍縮条約を延長するかどうかという時期に南雲忠一大佐らが上申書を出します。 それには、ワシントン条約の破棄、国防自主権の確保、軍縮の平等原則の樹立への対策を湯要求するとともに、強い政治を行う内閣を望む…

一旦停戦その後

盧溝橋事件は日本、中国のどちらが発砲したかはさておき、 当時の日本、中国それぞれに戦争を避けようとした動きもありました。 停戦への動きが功を奏して9日午前2時に停戦協定が結ばれます。 お互いの軍がそれぞれ一旦後退するということです。 ここで終…

運命の一発

盧溝橋事件の開始は「運命の一発」とされています。 実はこれは一発ではなかったのですね。これは前に書いたとおりです。 さて、どちらが最初に撃ったかということになるとまったく不明のようです。 日本、中国ともお互いに相手が最初に発砲したと言っていま…

西安事件

この当時の中国について書きます。 昭和11年の5月に紅軍つまり中国共産党軍が蒋介石の国民政府に対して「停戦講和一致抗日」を通電します。 これまで、毛沢東、周恩来の率いる中国共産党は蒋介石の率いる国民政府と激しく戦っていたのですが、ここにきて…

盧溝橋事件

話は盧溝橋事件へと進めます。 二・二六事件のことは改めて詳しく書きたいと思います。 まず事件の流れです。 昭和12年7月7日に起こります。 当時の新聞によれば、豊台駐屯の日本軍が7日夜盧溝橋付近で夜間演習中10事頃竜王廟にある馮治安部隊から攻…

2・26事件と国民

二・二六事件を国民が知ったのは26日の午後8時35分だったとのことです。 逓信省は事件発生にともない午前7時20分にNHKに対して「重大事件突発、事件関係の報道を一切差し止める」という通達を出します。 内務省は憲兵や警官を動員し、全国の新聞…

2・26事件の兵士

二・二六事件についてちょっと書きます。 当時の一般国民と参加した兵隊さんの言葉から拾いました。 事件において警視庁を占拠した第1師団歩兵第3連隊の人は26日午前4時ごろ不寝番に起こされて目的も告げられずに青山墓地東隣の連隊から警視庁まで55…

天皇機関説

天皇機関説においては国家法人説にもつづき、統治権の所在を法人たる国家に求めて天皇はその最高機関として統治権を行使するとします。この統治権は国民を幸福にするためのものとした学説です。 昭和天皇は天皇機関説について独白録に「国体を人体に譬え、天…

京大滝川事件

こうした風潮の下で軍部は思想統制を強化してゆきます。 当初は共産主義思想を目標としていたのですが、自由主義思想や平和主義思想も目標となります。 事件は昭和8年4月22日に鳩山一郎文部大臣が京都大学の小西重直総長に滝川幸辰法学部教授の罷免を要…

国際連盟脱退

昭和8年2月15日の閣議で荒木貞夫陸軍大臣と内田康哉外務大臣が国際連盟の脱退を主張します。 この段階では他の閣僚には「まだまだ」と言う人もおり、斎藤実総理大臣も反対であったため持ち越しとなります。 2月20日。国際連盟は日本に対して満州から…