相沢、再び上京

相沢中佐は一旦福山に帰りますが、8月10日に再び上京します。 この時の目的は永田殺害でした。 軍刀を最初から持っていました。 彼はこの時、台湾への赴任が決まっていました。 台湾に赴任すれば簡単には帰ってくることができません。 「今しかない」とい…

相沢、永田に会う

相沢は連隊長である樋口季太郎の許可を得て、7月17日に上京します。 樋口は相沢をよく理解していたようです。その彼が相沢の状況を許可しています。 許可を与えないと無断で上京しかねないと思ったのでしょうか。 当時は青年将校が無断で隊を離れることが…

相沢三郎中佐

相沢三郎中佐は岩手県の生まれです。 事件当時47歳だったといいます。 仙台幼年学校を出た陸士22期生でした。 同期のものがほとんど大佐になっていたので出世が遅いほうでした。 剣道4段で、陸軍戸山学校時代には剣道の教官といいます。 この戸山時代に…

相沢事件へ

真崎教育総監が罷免され後任は陸軍大臣と参謀総長の協議により渡辺錠太郎が教育総監となります。 この決定は皇道派から疑義がでました。 2長官の協議で教育総監が決まるのはおかしいというのです。 つまるところ教育総監部に統帥権があるかどうかということ…

真崎教育総監の敗北

第2回目の3長官会議が7月15日に行われました。 この会議で閑院宮が真崎に対して発言します。 「総監は大臣の事務を邪魔するのか」と。 真崎はこれに答えます。 その内容は 総監は天皇の総監であるから、統帥権に関わる人事であるので、陸軍大臣の一存に…

3長官会議

さて7月15日です。となるのが論理的な展開なのでしょうが、人間はなかなか論理では動かない面もあります。 そんなわけではないのでしょうが、7月12日に3長官会議を開くことになります。 真崎は情勢が不利と考えこの会議への出席を渋ったようですが、…

真崎が更迭に抵抗

真崎甚三郎は林陸相に対して子分に対するような気安さがあったのかもしれません。 林の人事に対してかなり口を出したようです。 もともと林陸相の人事構想の後ろには永田鉄山がいたので、真崎にしてみれば一層邪魔をしたかったのでしょう。 永田としても真崎…

2・26事件〜教育総監更迭

昭和11年の2月26日に第1歩兵師団第1連隊の2個中隊、歩兵第3連隊の4個中隊などが非常召集され、5時ごろ岡田啓介首相、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕前内大臣らを襲撃しました。岡田首相、牧野前内大臣以外は殺害…

東条内閣へ

第2回御前会議で天皇陛下は 四方の海みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ と詠まれてとのことです。歌にたくして発言をされたのでした。とりあえず10月が目途ですからそれまでに交渉をうまくいかせることを天皇は願っていました。 近衛文麿…

第2回御前会議へ

8月15日。 山本五十六連合艦隊司令長官は電報命令を発します。 それには 「連合艦隊は・・・すみやかに戦備を完了し、時局の急変に備えんとす」 とあります。 もはや戦争は避けることができないと山本は考えたのです。 彼は真珠湾攻撃を本気で考えるので…

第3次近衛内閣発足

こうした事態の中でまだまだ日米が和解することができると考えていた人がいました。 近衛文麿総理大臣です。 彼の考えではそもそも悪いのは松岡洋右でした。 だから松岡を外務大臣からはずす。 このように考えて近衛内閣は総辞職に踏み切ります。 この結果松…

戦争への道が広がる

日本はアメリカから1滴の石油も入ってこなくなりました。 当時の日本の備蓄はというと、木戸日記によれば 「油は海軍が2年量としても戦争をすれば1年半しかないという。陸軍は1年くらいとのことだ。」 といった感じでした。 この状況ではたしてアメリカ…

対日石油輸出禁止

この後の状況を列記します。 7月25日 アメリカが在米日本資産を凍結。 7月26日 イギリスも在英日本資産を凍結。 7月27日 蘭印政権は28日蘭印よりの日本、満州、中国、仏印への輸出、日本からの輸入に対し全面的許可制を布くとともに、在留邦人の…

第1回御前会議

大本営政府連絡会議は松岡洋右外務大臣がドイツのソ連侵攻によって北進論を主張。 一方、陸軍はソ連の脅威がなくなったのだから南進論を主張しました。 この両論の結論を御前会議に持ち越します。 御前会議とは天皇陛下の前で内閣と軍部が一緒になって日本の…

大本営政府連絡会議

大本営政府連絡会議という会議がありました。 この会議は昭和19年に最高戦争指導会議という名に変わります。 それはさておき、この会議は近衛文麿が昭和12年につくったものです。 目的は政府と軍部のそれぞれの幹部が互いに話し合おうというものでした。…

それは2人の神父から

話は戻ります。 昭和15年11月のことです。 ウォルシュとドラウトという神父が来日しました。 この2人は「日米国交打開策」を携えてきまいした。 まず、2人は産業組合中央金庫の井川忠雄理事に会い、井川理事を介して近衛文麿さんに会います。 近衛さん…

松岡洋右、スターリンに会う

松岡洋右はモスクワでスターリンに会います。 これは想定外の出来事でした。 ここで松岡は思い切った決断をします。 日ソ中立条約の締結です。 スターリンは当然独ソ戦を予想していたと思います。 それに備える意味での日ソ中立条約だったのでしょう。 松岡…

松岡洋右、ヒトラーと会談する

松岡洋右はドイツで2回ヒトラーと会談をしていました。 1回目の会談でヒトラーはこう主張しました。 「日本にとっての絶好の機会である。ロシアとイギリスはヨーロッパにかかりきりである。 アメリカも戦備が整っていない。若干の危険はあるが、その危険は…

日米諒解案

昭和16年4月にそれまで民間レベルで話し合っていた日米諒解案について正式交渉に入ります。 4月16日に日米諒解案ができます。 4月18日、日本政府統帥部連絡会議で全員が成立に賛成しますが、松岡外相の帰国を待って返電することにします。 4月22…

戦陣訓

昭和16年(1941年)1月8日に東条英機陸軍大臣の名において「戦陣訓」が全軍に示されます。 これは「序」に始まり、「その一」から「その三」まで3部から構成されます。 「本訓その一」は皇国、皇軍、軍紀、団結、協同、攻撃精神、必勝の信念の7項…

紀元2600年

昭和15年は紀元2600年に当たる年でした。 東京でオリンピックや万国博覧会を行う計画があり、そのために隅田川に勝どき橋が造られました。 この頃国民は生活状態も押し詰まってきて自由がきかず、心中かなりの不満を持っていました。そうした国民の鬱…

北部仏印へ進駐

昭和15年いよいよ日本はドイツと同盟を結ぶことによってアメリカ・イギリスを仮想敵国ではなく正真正銘の敵国とすることになります。 これに伴い陸軍は北部仏印(現在のベトナム)への進駐を計画します。 北部仏印といっても支配国であるフランスは当時ド…

いよいよ三国同盟へ

かくして近衛文麿首相によって、というよりも松岡洋右外相の主導によって三国同盟は締結されるはこびとなります。 ところで海軍はなぜ賛成に廻ったのでしょう。 まず、三国同盟の必要性はどこにあったのでしょう。 まず、アメリカへのけん制です。 アメリカ…

近衛内閣

近衛文麿という人は反米主義者でした。 だいたいの性格は自分の意見を通しながら、危なくなると逃げ出すといったものでした。 反米主義者であったため、日独伊三国同盟には積極的です。 一方において政党を解党して強力な体制を作ることが必要だとも考えてい…

バスに乗り遅れるな

昭和14年9月1日 ドイツ軍はポーランドに侵攻します。 ここに第2次世界大戦が始まるのです。 明けて昭和15年1月の米内光政内閣が成立します。 前に書いた海軍大臣が総理大臣になったわけです。 当然米内さんの主張は日独伊三国同盟に反対です。 ヨー…

山本五十六遺書を書く

こうして海軍の親米派の人たちがドイツとの同盟に反対します。 これを心よく思わない人は彼らを、特にズケズケものを言う山本五十六を暗殺することを考えます。 山本に対しても脅迫をしたようです。 山本は遺書をしたためます。 「一死君国に報ずるは素より…

ドイツを選ぶ理由

当時日本はなぜアメリカ・イギリスではなくドイツを選んだのでしょうか。 その理由はいくつか考えられます。 まず、当時のドイツに勢いがあったということでしょう。 第1次世界大戦で徹底的に打ちのめされた国がわずかな期間で復興してきた。 このことに多…

海軍VS陸軍

ノモンハン事件の裏側に外交と国政の大事な問題がありました。 近衛内閣が動きがとれなくなって辞職します。これが昭和14年1月4日のことです。 翌日平沼騎一郎内閣が発足します。 この時期にドイツのヒトラー総統から日独伊三国同盟が提案されます。 こ…

ノモンハン終結

こうして関東軍は当初の予定とは異なりハルハ川西岸を占領することなく撤退します。 その後の戦闘は東岸で行われ二度と西岸では行われませんでした。 ノモンハンでの日本陸軍の攻撃は日露戦争と変わりがありませんでした。 すなわち夜襲突撃です。 明治42…

ハルハ河を渡った西岸攻撃隊は圧倒的なロシア軍機甲部隊に対して苦戦していました。 日本軍を苦しめたのは相手の攻撃だけでなく、照りつける太陽と焼け付く大地でした。 彼らを支えるべき水はハルハ川を渡るときに満たした水筒だけでした。 その水筒の水もも…