2006-01-01から1年間の記事一覧

相沢、再び上京

相沢中佐は一旦福山に帰りますが、8月10日に再び上京します。 この時の目的は永田殺害でした。 軍刀を最初から持っていました。 彼はこの時、台湾への赴任が決まっていました。 台湾に赴任すれば簡単には帰ってくることができません。 「今しかない」とい…

相沢、永田に会う

相沢は連隊長である樋口季太郎の許可を得て、7月17日に上京します。 樋口は相沢をよく理解していたようです。その彼が相沢の状況を許可しています。 許可を与えないと無断で上京しかねないと思ったのでしょうか。 当時は青年将校が無断で隊を離れることが…

相沢三郎中佐

相沢三郎中佐は岩手県の生まれです。 事件当時47歳だったといいます。 仙台幼年学校を出た陸士22期生でした。 同期のものがほとんど大佐になっていたので出世が遅いほうでした。 剣道4段で、陸軍戸山学校時代には剣道の教官といいます。 この戸山時代に…

相沢事件へ

真崎教育総監が罷免され後任は陸軍大臣と参謀総長の協議により渡辺錠太郎が教育総監となります。 この決定は皇道派から疑義がでました。 2長官の協議で教育総監が決まるのはおかしいというのです。 つまるところ教育総監部に統帥権があるかどうかということ…

真崎教育総監の敗北

第2回目の3長官会議が7月15日に行われました。 この会議で閑院宮が真崎に対して発言します。 「総監は大臣の事務を邪魔するのか」と。 真崎はこれに答えます。 その内容は 総監は天皇の総監であるから、統帥権に関わる人事であるので、陸軍大臣の一存に…

3長官会議

さて7月15日です。となるのが論理的な展開なのでしょうが、人間はなかなか論理では動かない面もあります。 そんなわけではないのでしょうが、7月12日に3長官会議を開くことになります。 真崎は情勢が不利と考えこの会議への出席を渋ったようですが、…

真崎が更迭に抵抗

真崎甚三郎は林陸相に対して子分に対するような気安さがあったのかもしれません。 林の人事に対してかなり口を出したようです。 もともと林陸相の人事構想の後ろには永田鉄山がいたので、真崎にしてみれば一層邪魔をしたかったのでしょう。 永田としても真崎…

2・26事件〜教育総監更迭

昭和11年の2月26日に第1歩兵師団第1連隊の2個中隊、歩兵第3連隊の4個中隊などが非常召集され、5時ごろ岡田啓介首相、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕前内大臣らを襲撃しました。岡田首相、牧野前内大臣以外は殺害…