2005-10-01から1ヶ月間の記事一覧
当時日本はなぜアメリカ・イギリスではなくドイツを選んだのでしょうか。 その理由はいくつか考えられます。 まず、当時のドイツに勢いがあったということでしょう。 第1次世界大戦で徹底的に打ちのめされた国がわずかな期間で復興してきた。 このことに多…
ノモンハン事件の裏側に外交と国政の大事な問題がありました。 近衛内閣が動きがとれなくなって辞職します。これが昭和14年1月4日のことです。 翌日平沼騎一郎内閣が発足します。 この時期にドイツのヒトラー総統から日独伊三国同盟が提案されます。 こ…
こうして関東軍は当初の予定とは異なりハルハ川西岸を占領することなく撤退します。 その後の戦闘は東岸で行われ二度と西岸では行われませんでした。 ノモンハンでの日本陸軍の攻撃は日露戦争と変わりがありませんでした。 すなわち夜襲突撃です。 明治42…
ハルハ河を渡った西岸攻撃隊は圧倒的なロシア軍機甲部隊に対して苦戦していました。 日本軍を苦しめたのは相手の攻撃だけでなく、照りつける太陽と焼け付く大地でした。 彼らを支えるべき水はハルハ川を渡るときに満たした水筒だけでした。 その水筒の水もも…
ここで戦車に対する日本軍の考えについて書きます。 ノモンハン事件は戦車に対するロシア軍と日本軍の考え方の相違があらわれています。 日本軍は戦車対戦車の戦闘に関しては懐疑的でした。 あくまで歩兵の支援としか考えていませんでした。 そのため戦車の…
こうして7月を迎えます。 全軍1万5千の将兵が負けるはずはないという自信に満ちた顔で戦場へと向かいます。 7月2日ハルハ川東から西へ渡る準備をします。 しかし、この作業は予定通りにはすすまなかったのですが、何とか橋を架けることに成功します。 …
反撃とはいえ、大規模な軍事作戦となれば関東軍も陸軍中央の承認を受けなければならないはずです。 ところが、ここでは陸軍中央が承認しないと困った事態になるという意見が主流を占めます。 そこで陸軍中央には事前協議をせずに作戦命令を通報することとな…
さて、6月が到来しました。 ロシア軍が19日に突如攻撃をしてきます。 ここで関東軍の対応です。 当然「反撃すべし」ということになります。 辻正信が声を大にして徹底的に反撃することを主張します。 軍人というもの、というか人間というものは、こういう…
関東軍が陸軍本部に提出した戦闘に関する報告にはこうあります。 「一 軍は長期にわたり敵と対峙するがごとき状況に陥るを避け、主として航空部隊と地上部隊との機動により、越境し来る敵に間歇的に大打撃を与うることを企図しあり。 二 敵全体の状況ならび…
関東軍の戦闘をしてみたかったことの犠牲は大きかったわけです。 第23師団の兵の日記によれば 「5月25日 先頭の中隊が朝4時に作戦地域に入る。ノモンハンということでは、我々はやっと本日、出発から4日目に到着した。山県隊の通信指揮官はすでに、敵…
ここに一つの見解があります。「関東軍というのは世界に冠たる関東軍であると。そう言いながら第23師団はただの1回も戦争というものをやったことはないんですよね。 だから、どのくらい関東軍には力があるのか、本当に戦争に強いのか、それをね試してみた…
ここでノモンハンという土地でなぜ戦闘が起こったのかをみていきます。 ここにひとつの見解があります。 「なんという荒野原だ。こんな土地に5ドルだって払うつもりはない」 取材でこの土地に足を踏み入れた記者の見解です。 一方、兵士の述懐もあります。 …