真崎が更迭に抵抗

真崎甚三郎は林陸相に対して子分に対するような気安さがあったのかもしれません。
林の人事に対してかなり口を出したようです。
もともと林陸相の人事構想の後ろには永田鉄山がいたので、真崎にしてみれば一層邪魔をしたかったのでしょう。
永田としても真崎を一掃する必要性は十二分に感じていたと思われます。
林はまず真崎直系の秦真次第2師団長を待命にするなど皇道派を中央から一掃し、東条英機など地方にいるものを中央に戻すことを考えます。
ところで、この当時の陸軍の人事は3長官、すなわち陸軍大臣参謀総長教育総監の3人の協議の上で決定する慣習でした。
当時の参謀総長閑院宮でしたが、彼は真崎嫌いであったので林の人事に賛成でした。
もう一人の教育総監である真崎は当然のことながら反対。この案の内示を受けると中央の皇道派に漏らしたようです。
この結果、皇道派が騒ぎ出します。
かくして7月10日に林は真崎に更迭を持ち出します。
これは真崎に意外な話であったようですが、3長官の協議を縦に抵抗します。
この日の会談は物別れになり、7月15日に再度開かれることになります。