日本軍の戦車

ここで戦車に対する日本軍の考えについて書きます。 ノモンハン事件は戦車に対するロシア軍と日本軍の考え方の相違があらわれています。 日本軍は戦車対戦車の戦闘に関しては懐疑的でした。 あくまで歩兵の支援としか考えていませんでした。 そのため戦車の…

こうして7月を迎えます。 全軍1万5千の将兵が負けるはずはないという自信に満ちた顔で戦場へと向かいます。 7月2日ハルハ川東から西へ渡る準備をします。 しかし、この作業は予定通りにはすすまなかったのですが、何とか橋を架けることに成功します。 …

反撃とはいえ、大規模な軍事作戦となれば関東軍も陸軍中央の承認を受けなければならないはずです。 ところが、ここでは陸軍中央が承認しないと困った事態になるという意見が主流を占めます。 そこで陸軍中央には事前協議をせずに作戦命令を通報することとな…

ノモンハンに6月が到来

さて、6月が到来しました。 ロシア軍が19日に突如攻撃をしてきます。 ここで関東軍の対応です。 当然「反撃すべし」ということになります。 辻正信が声を大にして徹底的に反撃することを主張します。 軍人というもの、というか人間というものは、こういう…

5月の戦闘が残したもの

関東軍が陸軍本部に提出した戦闘に関する報告にはこうあります。 「一 軍は長期にわたり敵と対峙するがごとき状況に陥るを避け、主として航空部隊と地上部隊との機動により、越境し来る敵に間歇的に大打撃を与うることを企図しあり。 二 敵全体の状況ならび…

ノモンハンの5月の戦闘

関東軍の戦闘をしてみたかったことの犠牲は大きかったわけです。 第23師団の兵の日記によれば 「5月25日 先頭の中隊が朝4時に作戦地域に入る。ノモンハンということでは、我々はやっと本日、出発から4日目に到着した。山県隊の通信指揮官はすでに、敵…

ノモンハン事件発生原因の一見解

ここに一つの見解があります。「関東軍というのは世界に冠たる関東軍であると。そう言いながら第23師団はただの1回も戦争というものをやったことはないんですよね。 だから、どのくらい関東軍には力があるのか、本当に戦争に強いのか、それをね試してみた…

ノモンハンで戦闘する必要性

ここでノモンハンという土地でなぜ戦闘が起こったのかをみていきます。 ここにひとつの見解があります。 「なんという荒野原だ。こんな土地に5ドルだって払うつもりはない」 取材でこの土地に足を踏み入れた記者の見解です。 一方、兵士の述懐もあります。 …

ノモンハン事件の始まり

ノモンハンとは小さな集落の名前です。 もともとはラマ僧の役職名だそうです。最高位の活きぼとけをフトフクといい、ノモンハンはその次に位置します。 この地に有名なラマ僧の貴人の墓があったことから地名になったとも言われています。 このノモンハンには…

ノモンハン事件

ノモンハン事件の経過を書きます。 昭和14年4月25日 関東軍は「満ソ国境紛争処理要綱」を作成し、各部隊に下達します。これには「軍ハ侵サズ、侵サシメザルヲ満州防衛の根本基調トス」とあります。 5月11日 外蒙自治国と満州国の不明確な国境ノモン…

西尾末広懲罰除名

昭和13年3月16日に社会大衆党の西尾末広衆議院議員が国家総動員法に賛成する演説をします。 彼は議場で、「近衛首相はよろしくムッソリーニ、ヒトラー、スターリンの如く革新政策を断行すべし」と言いました。 議場は騒然。「スターリンとは何だ、取り…

国家総動員法

国家総動員法について書きます。 この法律が国会に上程されたのが昭和13年2月24日。公布が4月4日。施行が5月5日です。 さて、この法律の提案理由は広田弘毅外相によって代理説明されました。 「本法の適切なる運用に依りまして軍需品を充足して陸海…

海軍と軍縮条約

海軍についてちょっと書きます。 ワシントン軍縮条約を延長するかどうかという時期に南雲忠一大佐らが上申書を出します。 それには、ワシントン条約の破棄、国防自主権の確保、軍縮の平等原則の樹立への対策を湯要求するとともに、強い政治を行う内閣を望む…

一旦停戦その後

盧溝橋事件は日本、中国のどちらが発砲したかはさておき、 当時の日本、中国それぞれに戦争を避けようとした動きもありました。 停戦への動きが功を奏して9日午前2時に停戦協定が結ばれます。 お互いの軍がそれぞれ一旦後退するということです。 ここで終…

運命の一発

盧溝橋事件の開始は「運命の一発」とされています。 実はこれは一発ではなかったのですね。これは前に書いたとおりです。 さて、どちらが最初に撃ったかということになるとまったく不明のようです。 日本、中国ともお互いに相手が最初に発砲したと言っていま…

西安事件

この当時の中国について書きます。 昭和11年の5月に紅軍つまり中国共産党軍が蒋介石の国民政府に対して「停戦講和一致抗日」を通電します。 これまで、毛沢東、周恩来の率いる中国共産党は蒋介石の率いる国民政府と激しく戦っていたのですが、ここにきて…

盧溝橋事件

話は盧溝橋事件へと進めます。 二・二六事件のことは改めて詳しく書きたいと思います。 まず事件の流れです。 昭和12年7月7日に起こります。 当時の新聞によれば、豊台駐屯の日本軍が7日夜盧溝橋付近で夜間演習中10事頃竜王廟にある馮治安部隊から攻…

2・26事件と国民

二・二六事件を国民が知ったのは26日の午後8時35分だったとのことです。 逓信省は事件発生にともない午前7時20分にNHKに対して「重大事件突発、事件関係の報道を一切差し止める」という通達を出します。 内務省は憲兵や警官を動員し、全国の新聞…

2・26事件の兵士

二・二六事件についてちょっと書きます。 当時の一般国民と参加した兵隊さんの言葉から拾いました。 事件において警視庁を占拠した第1師団歩兵第3連隊の人は26日午前4時ごろ不寝番に起こされて目的も告げられずに青山墓地東隣の連隊から警視庁まで55…

天皇機関説

天皇機関説においては国家法人説にもつづき、統治権の所在を法人たる国家に求めて天皇はその最高機関として統治権を行使するとします。この統治権は国民を幸福にするためのものとした学説です。 昭和天皇は天皇機関説について独白録に「国体を人体に譬え、天…

京大滝川事件

こうした風潮の下で軍部は思想統制を強化してゆきます。 当初は共産主義思想を目標としていたのですが、自由主義思想や平和主義思想も目標となります。 事件は昭和8年4月22日に鳩山一郎文部大臣が京都大学の小西重直総長に滝川幸辰法学部教授の罷免を要…

国際連盟脱退

昭和8年2月15日の閣議で荒木貞夫陸軍大臣と内田康哉外務大臣が国際連盟の脱退を主張します。 この段階では他の閣僚には「まだまだ」と言う人もおり、斎藤実総理大臣も反対であったため持ち越しとなります。 2月20日。国際連盟は日本に対して満州から…

5・15事件

5・15事件を時間の経過を中心にたどってみます。 5月15日 午後5時ごろ 三上卓中尉ら4人の海軍将校と後藤映範ら5人の 陸軍士官候補生が首相官邸に乱入。犬養毅首相をピストルで射殺。 同じ頃 古賀清志海軍中尉ほか4人の陸軍士官候補生は牧野伸顕内…

5・15事件へ

上海事変がおわりました。陸軍中央は不満が充満します。「なぜ勢いに乗じて南京まで攻めなかったのだ」という不満です。 こうした不満を反映したのか昭和7年に暗殺事件が相次ぎます。 2月9日 井上準之助前大蔵大臣射殺 3月5日 団琢磨三井合名理事長射殺…

上海事変を終わらせる

上海事変の終わり方について書きます。 天皇が上海事変の不拡大を指示している一方、陸軍はどんどん拡大しようとします。 時の内閣は犬養毅でした。彼は陸軍に圧され中国軍の撃破のために2個師団を派遣することにします。 この派遣師団の司令官が白川義則大…

上海事変

昭和7年1月18日に事件は起きます。 日蓮宗の坊さんが2人、信徒が3人上海の町を托鉢しているときでした。抗日運動に名を借りて反日分子を装わせた中国人が坊さんたちを襲撃します。 この策謀の後ろには川島芳子がいたようです。この人、東洋のマタ・ハ…

上海事変へ

満州への侵略をすすめた結果、当初もたもたしていた国際連盟も動き出します。あまり日本を批判的にみていなかったアメリカも態度を硬化し始めます。 こうした事態の変化に対して日本は、満州の状態は引き返すことができない状態であると考えます。 さて、こ…

満州での戦火が拡大

満州では戦争が拡大していきます。 こうした中、中国は国民党が蒋介石、汪兆銘の2派に分れさらに毛沢東の共産党がいました。この3派がそれぞれ抗争をしていたので日本と戦うという点で気持ちが一つというわけにはいかなかったようです。 蒋介石は国際連盟…

インパール作戦

日本軍のインド侵攻作戦です。 昭和19年1月7日 大本営はボースのインド独立運動救援のためインパール作戦を許可 3月5日 第15軍司令官牟田口中将インパール作戦開始を主張 3月8日 牟田口中将は配下の3個師団を三方より進める 3月15日 第15・…

満蒙問題解決案

昭和6年10月2日に関東軍は「満蒙問題解決案」を決めます。 その方針は、満蒙を独立国としして関東軍の保護の下に置いて、材満蒙各民族の平等なる発展を期そうという内容です。 これは石原莞爾が中心となって作ったもので、彼としてはもともと満州を日本…