それは2人の神父から

話は戻ります。
昭和15年11月のことです。
ウォルシュとドラウトという神父が来日しました。
この2人は「日米国交打開策」を携えてきまいした。
まず、2人は産業組合中央金庫の井川忠雄理事に会い、井川理事を介して近衛文麿さんに会います。
近衛さんはこの案に乗りました。
その案というのはルーズベルト大統領と近衛首相が太平洋で会い、日米両国の間にある懸案を一挙に調整するというものでした。
このときには陸海軍もこの案に乗りまして、政府は駐米日本大使に野村吉三郎海軍大将を選びます。
ところで、この野村さんは外務省からは嫌われていました。
というのは野村さんは外務大臣をしたことがあり、このときに外務省改革をしたのです。
組織の恨みというものはなかなか消えないもので国の大事よりも優先してしまうようです。
そんなわけで、この人事は外務省は気に入らなかったのでした。
この抵抗は面と向かいなされるのではなかったのはいつの時代も変わらないようです。
この結果は国民にとって悲惨なものになるのですが。