2・26事件〜教育総監更迭

昭和11年の2月26日に第1歩兵師団第1連隊の2個中隊、歩兵第3連隊の4個中隊などが非常召集され、5時ごろ岡田啓介首相、斎藤実内大臣高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監牧野伸顕内大臣らを襲撃しました。岡田首相、牧野前内大臣以外は殺害されました。
いわゆる「2・26事件」です。
東京朝日新聞社も襲撃され、陸相官邸、警視庁が占拠されました。
襲撃を終えた部隊は三宅坂、赤坂、溜池一帯を銃付鉄砲や機関銃で交通遮断。

この事件をきっかけに日本は大きく変わっていきました。
この事件は当時の陸軍における統制派と皇道派の争いであったという見方もあります。
そこで少し遡って昭和10年に起こった真崎甚三郎教育総監罷免事件から始めたいと思います。

林銑太郎陸軍大臣という人がいました。この人はもともと真崎甚三郎や荒木貞夫の側にいた人なのですが、彼らから離れ永田鉄山軍務局長の側になりました。
簡単に言ってしまうと皇道派の側から統制派の側に変わったということです。
昭和10年8月の陸軍異動において真崎派の一掃を考えました。これは永田のプランだったといわれています。
林はもともとは真崎・荒木に友情というか恩義というかそういったものを感じていたようですが、立場が陸軍大臣となると私事だけで動くわけにはいかなかったようです。
ただ、あまりカリスマ性がなかったためか、真崎を押えることができなかった。
真崎が更迭に抵抗する。なかなか罷免に応じなかった。
この結果が相沢事件、2・26事件の引き金になったと思われます。

東条内閣へ

第2回御前会議で天皇陛下
 四方の海みなはらからと思ふ世に
   など波風の立ちさわぐらむ
と詠まれてとのことです。

歌にたくして発言をされたのでした。

とりあえず10月が目途ですからそれまでに交渉をうまくいかせることを天皇は願っていました。
近衛文麿さんもルーズベルト大統領と頂上会談を開こうとするのですが、
ルーズベルト大統領からは断られてしまいます。
すると近衛内閣は倒れてしまいます。
10月16日のことです。
この後に内閣総理大臣になるのが東条英機でした。
近衛内閣の陸軍大臣です。

第2回御前会議へ

8月15日。
山本五十六連合艦隊司令長官は電報命令を発します。
それには
連合艦隊は・・・すみやかに戦備を完了し、時局の急変に備えんとす」
とあります。
もはや戦争は避けることができないと山本は考えたのです。
彼は真珠湾攻撃を本気で考えるのです。
これはまたの機会に書きます。

さて、山本に遅れて政府もだんだん「これはもうダメだ」と考え始めます。
9月6日 第2回御前会議が開かれます。
その前日である9月5日に大本営政府連絡会議が開かれ次の決定がなされます。

1.米英に対して戦争準備を行う。
2.これに並行して日米交渉を進める。
3.10月中旬になっても日米交渉成立の目途が立たなければ戦争を決意する。

この案を近衛文麿さんは天皇へ報告します。
天皇陛下は戦争準備が1番目にあるのでビックリするのですね。
すると近衛さんは
「1、2の順序は必ずしも軽重を示すものではありません。」
などと言ったわけです。

これには天皇も納得しなかったのですが、陸軍海軍の話を聞いて納得されます。
かくして第2回御前会議が開かれ決定をみることになります。

第3次近衛内閣発足

こうした事態の中でまだまだ日米が和解することができると考えていた人がいました。
近衛文麿総理大臣です。
彼の考えではそもそも悪いのは松岡洋右でした。
だから松岡を外務大臣からはずす。
このように考えて近衛内閣は総辞職に踏み切ります。
この結果松岡が外務大臣からはずれただけで他の人は変わらないという第3次近衛内閣が発足します。
ちょっとさかのぼりますが、天皇陛下も松岡を辞めさせたいと考えていたようで、
「こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を辞める様にと云った」ということが「昭和天皇独白録」にあります。
この頃近衛さんは天皇陛下ルーズベルト大統領とに直接会談によって事態を好転させるつもりだと報告をしています。
自分のペースで物事がすすむと考えてしまっていたのです。

戦争への道が広がる

日本はアメリカから1滴の石油も入ってこなくなりました。
当時の日本の備蓄はというと、木戸日記によれば
「油は海軍が2年量としても戦争をすれば1年半しかないという。陸軍は1年くらいとのことだ。」
といった感じでした。
この状況ではたしてアメリカに勝てるのでしょうか。
永野修身軍令部総長天皇にこう言ったとのことです。
日本海海戦のごとき大勝はもちろん、勝ちうるかどうかもおぼつきません。」
こうなってしまうと日本は石油を求めて南進してゆくしかありません。
「石油を止められれば戦争だよ」と言った人もあったとか。
かくして戦争への道が拡大してゆきました。

対日石油輸出禁止

この後の状況を列記します。
7月25日 アメリカが在米日本資産を凍結。
7月26日 イギリスも在英日本資産を凍結。
7月27日 蘭印政権は28日蘭印よりの日本、満州、中国、仏印への輸出、日本からの輸入に対し全面的許可制を布くとともに、在留邦人の資産を凍結する布告を発する。
7月28日 日本軍、南部仏印進駐。
8月1日  アメリカが対日石油輸出を全面的に禁止。

このように日本の包囲網が出来上がってゆきます。

第1回御前会議

大本営政府連絡会議は松岡洋右外務大臣がドイツのソ連侵攻によって北進論を主張。
一方、陸軍はソ連の脅威がなくなったのだから南進論を主張しました。
この両論の結論を御前会議に持ち越します。
御前会議とは天皇陛下の前で内閣と軍部が一緒になって日本の大方針を決定する会議です。
ここでも天皇陛下は一言も発言しないのが慣例でした。
事前に大本営政府連絡会議で決まったことを天皇には報告してあって
御前会議というものは儀式に等しかったのです。
昭和16年7月2日に第1回が開かれます。
この会議はいかにも日本的であったのです。
結論は日中戦争を進めつつ南方へも進出するというものでした。
松岡洋右外務大臣の顔も立てながら南方への進出する。
北方もチャンスがあれば進出するというものでした。
さらに英米に対して戦争も辞さないという意思も決定されます。
ここに対米戦を行う可能性をを公式なものにします。