大本営政府連絡会議

大本営政府連絡会議という会議がありました。
この会議は昭和19年に最高戦争指導会議という名に変わります。
それはさておき、この会議は近衛文麿が昭和12年につくったものです。
目的は政府と軍部のそれぞれの幹部が互いに話し合おうというものでした。
国務と統帥、つまり内政外交と軍事の相互調整を意図としていたのです。
この会議に法制上の根拠はありません。
したがって、国務については閣議で正式決定しました。

さて話は複雑になります。
天皇陛下天皇であると同時に大元帥でもありました。
言ってみれば軍の総元締めであったわけです。
軍の組織の一番偉いのが大元帥であったわけです。
天皇は内閣の決定したことに「ノー」と言わない人でした。
大本営政府連絡会議で決定されたことは内閣も承諾したのですから、天皇は「ノー」と言いません。
それが軍の意思であり天皇が反対であったとしても、大元帥の立場が行使できないことになってしまったのです。
結果として軍が内閣を押し切れば統帥権のあるべき天皇は反対をしないという体制になってしまったわけです。

それは2人の神父から

話は戻ります。
昭和15年11月のことです。
ウォルシュとドラウトという神父が来日しました。
この2人は「日米国交打開策」を携えてきまいした。
まず、2人は産業組合中央金庫の井川忠雄理事に会い、井川理事を介して近衛文麿さんに会います。
近衛さんはこの案に乗りました。
その案というのはルーズベルト大統領と近衛首相が太平洋で会い、日米両国の間にある懸案を一挙に調整するというものでした。
このときには陸海軍もこの案に乗りまして、政府は駐米日本大使に野村吉三郎海軍大将を選びます。
ところで、この野村さんは外務省からは嫌われていました。
というのは野村さんは外務大臣をしたことがあり、このときに外務省改革をしたのです。
組織の恨みというものはなかなか消えないもので国の大事よりも優先してしまうようです。
そんなわけで、この人事は外務省は気に入らなかったのでした。
この抵抗は面と向かいなされるのではなかったのはいつの時代も変わらないようです。
この結果は国民にとって悲惨なものになるのですが。

松岡洋右、スターリンに会う

松岡洋右はモスクワでスターリンに会います。
これは想定外の出来事でした。
ここで松岡は思い切った決断をします。
日ソ中立条約の締結です。
スターリンは当然独ソ戦を予想していたと思います。
それに備える意味での日ソ中立条約だったのでしょう。
松岡はそれを知りません。
モスクワを発つときにスターリンが見送りにきます。
スターリンはモスクワ駅で何を考えていたのでしょう。

それはともかく、松岡が帰国すると日本は南進一色となっています。
スターリンは日本の南進を喜んだことでしょう。
ソ連にとってはとりあえず敵をドイツに絞ることができたわけです。

アメリカはソ連の動きから対ソ戦略に千島列島が使えることを知ります。
これが後日役に立つことになります。
しかし、この段階ではこのことを把握したにとどめます。

1941年6月22日。
日本を驚愕させることが起こります。
ドイツが日本に連絡なしにソ連に侵攻したのです。
バルバロッサ作戦といいます。

これに対して松岡洋右はどうしたのでしょうか。
彼は言います。
「断乎としてソ連と戦おう」
これには皆が驚きます。
2ヶ月ちょっと前にソ連と中立条約を結んできた人の発言です。
松岡はさらに
「時間がたてばソ連の抵抗力は増し、日本は米英ソに包囲されることになる。
 日本が満州から攻撃に出てスターリンを潰し、ヒトラーに勝たせる。
 その後にゆっくりと南方へ進出すれば、
 米英を押えることができる。」
かくして松岡の南進論から北進論への転向がなされます。

松岡洋右、ヒトラーと会談する

松岡洋右はドイツで2回ヒトラーと会談をしていました。
1回目の会談でヒトラーはこう主張しました。
「日本にとっての絶好の機会である。ロシアとイギリスはヨーロッパにかかりきりである。
アメリカも戦備が整っていない。若干の危険はあるが、その危険は微々たるものである。
そこで日本はイギリス領であるシンガポールを攻めるべきである。イギリス、フランスは戦力を回復する可能性がある。そうなれば、アメリカも彼らを応援しているから、日本は3石と戦争をしなければならなくなる。その前にイギリスをたたくべきである。」

これに対して松岡洋右は「わかりました。」とは言いませんでした。言い逃れを言いつつ確答は避けました。

2回目の会談でも松岡洋右アメリカが日本のシンガポール攻撃によってイギリスに協力して日本と戦端を開くのではないかと主張します。
するとヒトラーは、
アメリカはイギリスが没落すれば仲間を失い孤立せざるをえない。そうなればドイツ、日本、イタリアを相手に戦争をしようなどとは思わないだろう」
と言います。

こうしたヒトラーの誘惑をかろうじて承諾をせずに松岡洋右はモスクワへと向いました。

日米諒解案

昭和16年4月にそれまで民間レベルで話し合っていた日米諒解案について正式交渉に入ります。
4月16日に日米諒解案ができます。
4月18日、日本政府統帥部連絡会議で全員が成立に賛成しますが、松岡外相の帰国を待って返電することにします。
4月22日 松岡外相が帰国します。松岡外相が日米諒解案に反対であったために、修正案を作成します。

松岡洋右外相はドイツでヒトラーに会ってきました。その後でモスクワでスターリンにもあったのでした。
このときのことを天皇陛下は「昭和天皇独白録」によると
「松岡は2月の末に独逸に向い4月に帰って来たが、それからは別人の様に非常な独逸びいきになった、おそらくはヒトラーに買収されてきたのではないかと思われる」と言ったそうです。

天皇でさえそんな感じをいだくほどの松岡外相がすんなりと日米諒解案に賛成するはずはなかたったのです。

戦陣訓

昭和16年(1941年)1月8日に東条英機陸軍大臣の名において「戦陣訓」が全軍に示されます。
これは「序」に始まり、「その一」から「その三」まで3部から構成されます。
「本訓その一」は皇国、皇軍軍紀、団結、協同、攻撃精神、必勝の信念の7項目で国体観、皇軍観をはじめとする集団道義を示しています。
「本訓その二」は敬神、孝道、敬礼挙措、戦友道、率先躬行、責任、死生観、名を惜しむ、質実剛健、清廉潔白の10項目からなり、個人道義を示しています。
「本訓その三」は戦陣の戒と戦陣の嗜の2項目にわかれ、皇軍将兵が激戦の最中においても寸暇を惜しみ「心」を養わんとする武士道精神を近代戦に即して具体的に示しています。

紀元2600年

昭和15年は紀元2600年に当たる年でした。
東京でオリンピックや万国博覧会を行う計画があり、そのために隅田川に勝どき橋が造られました。
この頃国民は生活状態も押し詰まってきて自由がきかず、心中かなりの不満を持っていました。

そうした国民の鬱屈した思いを吹き飛ばす意味もあって11月に紀元2600年の式典が行われました。
この頃流行った歌が「金鵄輝く日本の、栄えある光身に受けて〜♪」というものでしたが、これには替え歌があって「金鵄あがって15銭、はえある光30銭〜♪」といったものでした。
要するに金鵄(ゴールデンバット)、光はともに煙草の名前で、これらの値上げを皮肉くる内容です。
11月10日に皇居前で式典が挙行され全国から代表5万人が集りました。
提灯行列、山車、旗行列とお祭り気分が15日まで続きます。
16日になると「祝いは終わった、さあ働こう」というポスターが張り出されました。